18歳で高校を退学し、東南アジアを旅しながら、彼女自身の旅の過程を描いた中篇映画『Road-Schooler』(2009)を制作。2009年、韓国国立芸術大学に入学し、ドキュメンタリーの製作を学ぶ。その後、ろう者の両親にもとに生まれたことを最良のプレゼントと感じて本作の制作を開始。完成後は国内外の映画祭で上映され、日本では山形国際ドキュメンタリー映画祭2015アジア千波万波部門で特別賞を受賞。2015年に韓国での劇場公開も果たした。現在はベトナムを舞台に次回作を撮影中。
――ご家族の話をドキュメンタリーで撮ろうと思ったのはいつからですか。
私は子どもの頃からずっと通訳したり説明したりしなければならない立場にありました。「私の母と父はろう者です」と言うと、いつも困惑した表情を浮かべたり、同情や憐みのまなざしで見られたりしました。でも、私が見た両親の世界は特別で美しかった。だから多くの人にそのことを知らせたいといつも思っていました。手話で話すとき、顔の表情がどれほど豊かに見えるか、表情がどれほど繊細か、聞こえる人はあまり知らないし、言葉だけで説明しても理解してもらえない。そういったことを知らせたいという欲が大きくなり、映画で説明したいと自然に考えるようになりました。
映画で新しく知った事実も多かった。手話は、手を見るだけでは絶対に伝わらないことも今回、知りました。ろう者の言語は手話をする手だけではなく、表情を見なければなりません。映画の中に私の手だけが出てきて手話をする場面がありますが、それはろう者が見ても何を話しているのか分からないと言います。表情が見えなければ完璧な言語にならず、推測するのはかなり難しい。そしてほとんどの人は、目の前で手話をすると、手を見るのではなく、目を見ます。表情と目と手で話すのが手話なのです。
だから、映画の中でインタビューするときは、ずっと同じ構図で撮るしかありませんでした。目、鼻、口をクローズアップにすることもできず、手話をしている場面を大きく収めようとすると、頭の上の部分が切れてしまう。手で話す人を映すときは、一般的な映画の撮影とは方法が大幅に異なることを改めて知りました。
――幼い頃から両親と世界の間で通訳をしなければならなかったため、他の子たちより、かなり早く多くのことを知り、感じたのではないでしょうか。
私は幼い頃から母よりも多くの情報を持っていました。聞くことができ、ニュースも見ることができ、新聞も読むことができました。でも両親は字をきちんと習えなかったのです。韓国の聴覚障がい者教育はひどく立ち遅れています。手話ができなくても特殊教師になれます。大半の人たちは聴覚障がい者についてよく知りません。
――撮影をしながら音が聞こえないことについて、監督としてたくさんのことを考えたのではないでしょうか。
もし、健常者が視覚障がい者の困難を知るための体験をするとすれば、目隠しをして歩けばいい。しかしろう者の体験はできません。どんなに自分の耳をきつく塞いでも自分の話す声が聞こえ、世界の音が聞こえてきます。私たちは寝ている間さえも音を聞いています。私もろう者の両親を持ちましたが、映画を作りながら、「音が聞こえない」というのはどんなことなのか悩むようになりました。聞こえない経験をしたことがないため、想像するのはとても難しい。だから見過ごしている部分がたくさんあると思います。外見だけではろう者かどうか分からず、「健康だから問題ないだろう」と思われ、それがこの社会とろうの社会を次第に遠ざけているように思います。
――お母さんが『愛慕』を歌うカラオケの場面を印象深いシーンとして挙げる観客が多いのではないですか。
両親は友達とカラオケによく行きます。私の家族がカラオケに行くのは、私にとっては見慣れたことです。観客を驚かせようと思って入れたシーンではありませんが、観客はとても衝撃を受けたようで、私の方が驚いています(笑)。カラオケのシーンを入れたのは、ろう者が歌うシーンで、きっと美しい何かを発見できると思ったからです。私は両親の歌う姿が美しいと思っているので、皆さんにも一緒に感じてほしかった。
――弟さんが一緒に手話をしながら歌っているのが印象的だった。
たまたま弟が手話で歌っていました。後で聞いたところ、自分が画面に映るとは思っていなかったそうです(笑)。それぞれが自分なりのやり方で歌っている場面は、最初はぎこちなく、見慣れないため、少し居心地が悪いかもしれませんが、2~3分ずっと聞いていると、「不思議と美しいな」と思える点を見つけ、共有できるだろうと思いました。だから編集でカットせず、母が最後まで歌う姿を入れました。
――成績の良かった模範生のあなたが、高校1年のときに退学し、旅に出ようと思ったきっかけは何ですか。
私の夢はドキュメンタリーのプロデューサーか、NGOの活動家になることでした。紛争地域で活動し、困っている人たちを助けたいと子どもの頃からずっと考えていたんです。でも進路相談をしたところ、先生に「ボラ、ドキュメンタリーのプロデューサーになりたいなら、名門大学を卒業してマスコミの入社試験を受けなさい。その後、助監督を何年か経験して、演出を経験しなければドキュメンタリーは撮れない」と言われました。私はそのとき、先生の話がとてもおかしいと思いました。私はプロデューサーになりたいのではなく、いいドキュメンタリーを作りたかっただけなのですから。それ以降、自然と「私がいまここでしていることは、困っている人たちの助けになるのか。先生がおっしゃった道に行くのが正しいのか」と悩むようになりました。そうしているうちに、「映画を作りたい」という夢がだんだん大きくなっていきました。そして、私が助けようとしている人たちがどんな生活をしているのか、この目で見たいと思うようにもなりました。だから高校を1年くらい休学して、旅に出ることを決心しました。
――ドキュメンタリーのプロデューサーやNGOの活動家になりたいと思った特別な理由があったのですか。
子どもの頃から両親の音のない世界を見てきました。そうしているうちに自然とろう者の世界と一般社会が私の人生に共存し始めました。そんなある日、「ああ、肌の色が違う人たちの世界があるんだな、動物の世界があるんだな」と思い、他の世界に対する好奇心が芽生え始めました。両親の特別な世界を見てきたので、馴染みがないという感覚ではなく、「肌の色が違う人たちの世界もきっと特別なんだろう。あの人たちの世界にはどんな話があるんだろう」と気になることの方が多かった。おそらく、いつも2つの世界を行き交っていたため、「この世には、もっともっと大きな世界があり、その中にはさらにたくさんの世界があるんだろう」と自然に思うようになったようです。だからドキュメンタリーのプロデューサーやNGOの活動家のように、人と一緒に活動する現場の人になることを夢見ていたのだと思います。
――旅の後は韓国に戻り、学校の外で考え、文章を書き、カメラを持ちます。
旅を始めて、「私が旅で学べるのはこの程度のことなのか」と思ったことがあります。でも旅を終えてみると、思っていたより2倍も3倍も学ぶことができていた。それは驚きでした。「本当に旅をしてみたら、道が学校なんだ。外に出てみたら、道で会うすべてが先生なんだ」と思えました。だから、あえて学校に戻る必要は感じなかった。学校で教える知識は本を読んでもいいし、学校の外でも学べる空間がたくさんあることを知ったから。もし私が検事や医師のように専門的な学問を必要とする職業を望んでいたら、学校に戻ったことでしょう。でも私は現場の話を伝える人になりたかったから、世界の外でより多くのことを学ぼうと決めたのです。
――映画が公開された後、観客の反応を直接見て聞くことで感じる点が多かったのではないでしょうか。
多くの方が、知らなった世界に出会えたと言ってくださいます。また、泣くつもりでハンカチを用意して映画館に行ったのに、使うことがなくて困ったという話も記憶に残っています(笑)。
※韓国公開時のインタビューより抜粋
(取材=Max Movie 翻訳=根本理恵)